彼らはどこかにいるのだ
      2017 / 11 / 21 ( Tue )
      いや~、今朝東大をお散歩中に、さめざめ泣いてしまいまして💦

      出しなに拝見した知人のFBにて、残業を終えて深夜帰宅なさるその方を
      いつも愛犬ちゃんが寝ずに玄関でいじらしく待ってくれている、という
      微笑ましい投稿を思い出してほっこりしていました。

      次の瞬間、(そういえば・・・)と。

      ベリーも、私がどんなに遅く帰宅しても、いつも玄関前で
      待ってくれていたっけなぁ・・・・。

      両親曰く、ベリーが玄関にトコトコ向かう姿で、
      そろそろ私が帰宅するのだな、と見当をつけていたと。

      どんなに仕事でヘトヘトでも、玄関前に着いた瞬間、
      全身の疲れがふっと抜けるのを感じました。
      玄関ドアを開けると、そこに嬉しげにお耳をペタンとさせ
      私を待ち構えてくれている最愛の犬がいると、わかっていたから。

      早く帰れた日も、遅く帰宅した日も、いつもそこにはベリーがいました。
      (時折、後ろにゴンタや雪じろうを従えて待っていたことも。)


      帰宅後、パソコンルームに籠ってメールチェックする私の
      傍らでしばし寝そべり、その後私と一緒に二階の自室に引き上げるのが
      彼の平日夜のルーティーンでした。

      階段をあがる私の後ろから聞こえてくる、コトン、コトンというベリーの足音が
      ありありと思い出され、ぶわっと何かがこみ上げてきたのです。

      なんていとおしい犬だったろう。

      なんて幸せで、恵まれた日々だったのだろう・・・・!と改めて思いました。

      当時も幸せを実感していましたが、やはり特別な時間でした。
      特別な、犬でした。



      サン・テグジュペリがこう表現しています。


      「ぼくらの生活が僚友たちからぼくらを遠ざけ、
      ぼくらに彼らの上を思う余裕のある時間を与えないかもしれないが、
      しかしまた彼らはどこかにいるのだ、どこともわからない所に
      黙りこくって、忘れられて、しかしまたきわめて親密に!

      それでもしぼくらが彼らの道を横切るようなことがあると、
      彼らは炎のような喜びを見せてぼくらの肩を揺すぶってくれる!

      (中略)

      とはいうものの、やがてぼくらもすこしずつ気がついてくる、
      あの一人のあの明るい笑い声を、二度と聞く日はもうないのだと、
      あの庭園は永久にぼくらのために閉ざされてしまったのだと。
      するとこのとき、はじめてぼくらにとってまことの服喪が始まるのだ。
      それはけっして裂くような悲しみではないが、しかしどうやらほろ苦い。 」

       (アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 『人間の土地』 僚友 より
                                      /堀口大學 訳 )



      「彼らはどこかにいるのだ、どこともわからない所に
      黙りこくって、忘れられて、しかしまたきわめて親密に! 」

      上手い表現だなぁ・・・・と思いました。


      こういう時、私はついつい若松英輔さんのご著書を手に取ってしまいます。
      今朝、再読した箇所の一部をシェアして今日はおわかれです。


      「井筒(俊彦)にとって「コトバ」とは言語ではなく、
      究極的実在がこの世界に現われるときの姿である。
      それは、音であり、色、香り、律動でもあるだろう。
      「ココロ」とは、万物がそれぞれの本当の姿を知る働きである。
      死者は、私たちが発する「コトバ」を読む。
      それはときに涙であり、嘆きでもあるだろう。

      もっとも苛烈な試練に遭遇したとき、そのとき、
      そばにいて欲しいと願う人はいない。
      なぜなら、その人を喪うことが、その試練にほかならないからである、
      そう思っていた。
      だが、現実は違う。
      死者は、悲しむ生者に寄り添っている。
      死者はいつも私たちの魂を見ている。
      私たちがそれを見失うときも、死者たちは、魂にまなざしを注ぎつづける。
      ときに死者は、私たち自身よりも私たちに近い。

      死者は、ずっとあなたを思っている。
      あなたが良き人間だからではなく、ただ、あなたを思っている。
      私たちが彼らを忘れていたとしても、彼らは私たちを忘れない。
      死者は随伴者である。
      彼らは、私たちと共に苦しみ、嘆き、悲しみ、喜ぶ。
      生者を守護することは、死者の神聖なるつとめである。
      死者は感謝を求めない。
      ただ生き抜くことを望むだけだ。
      死者は、生者が死者のために生きることを望むのではなく、
      死者の力を用いてくれることを願っている。

      死者を探してはならない。
      私たちが探すのは、自分が見たいと思う方角に過ぎない。
      おそらく、そこに死者はいない。
      ただ、語ることを止め、静かに佇んでみる。
      すると、あなたを思う不可視な「隣人」の存在に気がつくだろう。

      死者を感じたいと願うなら、独りになることを避けてはならない。
      それは、私たちに訪れた沈黙という恩寵である。
      死者はいたずらに孤独を癒すことはしない。
      孤独を通じてのみ知り得る人生の実相があることを、彼らは知っている。
      死者はむしろ、その耐えがたい孤独を共に耐え抜こうとする。

      誰も自分の悲しみを理解しない、そう思ったとき、あなたの傍らにいて、
      共に悲しみ、涙するのは死者である。
      私たちは信頼し得る生者を信用するように、死者の働きを信じてよい。
      死者にとって、生者の信頼は無上の供物となり、
      死者からの信頼は、生者には慰めと感じられる。

                            (若松英輔著「魂にふれる」より)



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